現在の市街地は古代にはそのほとんどが海中にあり、1400年ごろには河川から流れてきた土砂が堆積することによって、一帯に三角州が形成されました。
“広島”という地名は、太田川水系の堆積作用によって形成された三角州が、海に浮かぶ島々のように見えたことに由来すると言われています。
中国山地から瀬戸内海へと流れる太田川水系が形成する三角州―その水のゆらぎ・きらめき、やまなみや木々の風景、河岸緑地や広島城の石積みは、現在における広島の原風景となっています。
現在の市街地は古代にはそのほとんどが海中にあり、1400年ごろには河川から流れてきた土砂が堆積することによって、一帯に三角州が形成されました。
“広島”という地名は、太田川水系の堆積作用によって形成された三角州が、海に浮かぶ島々のように見えたことに由来すると言われています。
中国山地から瀬戸内海へと流れる太田川水系が形成する三角州―その水のゆらぎ・きらめき、やまなみや木々の風景、河岸緑地や広島城の石積みは、現在における広島の原風景となっています。
安土桃山時代、毛利輝元(もうりてるもと)がこの三角州に広島城を築城し、それと一体に城下町を整備しました。広島の街は太田川水系がつくる三角州の地形と、南北に対して18度軸を振った城下町の、碁盤目状の街区割が重なり合うように形成されています。
計画地は外堀内側の大手郭(おおてくるわ)の一角に位置し、城内への入口の1つ「立町御門(たてまちごもん)」のたもとに位置していました。また、堀の南側には西国街道を中心とした城下町のにぎわいが広がっていました。
広島城城下町の成り立ちは現在の街並みにも引き継がれ、南外堀を埋めてつくられた相生通りの北側は官公庁街・文化ゾーンとして整備され、南側は商店街を中心とした商業ゾーンとして発展してきました。
官民一体となって推進する本事業は、かつてこの地が城下町に対する城内への入口であったように、この2つのゾーンをつなぐ役割を担っています。
01
広島のやまなみやしまなみを体感することのできる、広島の原風景と呼応する新しいガラスのランドマークを生み出します。
02
相生通りに大きく開いた1階ピロティや6階オープンテラスは、市民に親しまれる相生通りの新しい顔になるとともに、広島の未来を創るクリエイティブな才能が集まり、新しいにぎわいと交流が生まれる施設を目指します。
03
“立町御門”の歴史を有するこの場所は、ひろしまの原風景が感じられる表情と豊かなみどりで包まれた、新しいまちの基点施設として生まれ変わります。
高層棟は中高層部をセットバックすることで、街並みとの連続性に考慮しつつ、相生通りに面した新しい顔をつくります。
また、「そら」に向かって斜めにカットされた外観は、広島の原風景を映し込むガラスのランドマークとして、新しい都市の風景となります。
・広島の原風景を想起する「水」「緑」「石」の表情をデザインに取り入れ、ここにしかない顔づくりを目指します。