投稿日:2024.05.31

旧市営基町駐車場、中電基町ビル、そして旧広島朝日ビル跡地を一体再開発している基町相生通地区第一種市街地再開発事業。今回は、㈱朝日ビルディングの社員として旧広島朝日ビルに勤務経験のある方々(退職者含む)をお招きし、当時のお話を伺いました。

 

座談会参加者プロフィール

松原浩二 氏
広島朝日ビルでの勤務期間:1975年~2001年
技術を担当。定年退職後も電気保安協会に所属し、電気主任技術者として広島朝日ビルを支えた。
金井優 氏
広島朝日ビルでの勤務期間:1977年~2011年
技術を担当。ビル解体前には営業担当として、テナントとの渉外役も担った。
西部宏志 氏
広島朝日ビルでの勤務期間:1988年~1994年
映画館(広島朝日会館)の営業を担当。1991年からは支配人として、会館を支えた。
大阪中之島のフェスティバルホール支配人を経て、現在は有楽町・浜離宮朝日ホールの支配人を務めている。
三木直哉 氏
広島朝日ビルでの勤務期間:1994年~2000年
映画館(広島朝日会館)の営業を担当。
現在は大阪中之島フェスティバルプラザ 商業施設部 副部長を務めている。
坂本暢章 氏
広島朝日ビルでの勤務期間:1991年~1996年
技術を担当。現在は企画開発室長として、当事業の推進役を担っている。

 

旧・広島朝日ビル(以下、広島朝日ビル)の概要

広島朝日ビル 外観写真(出典:1979年発行「朝日ビルディング 50年史」)

 

広島朝日ビルは1958年に竣工しました。
地下2階、地上9階、延べ床面積11,555㎡の商業ビルで、朝日新聞社広島支局(現広島総局)や広島朝日会館、オフィス、店舗で構成されていました。ビルの特徴としては、7~9階(3フロア分)にあった広島朝日会館で、約800席の映画館を運営していたことです。また、現在は一般的なアルミサッシが窓に多く使用されていましたが、当時は珍しかったようです。

 

広島朝日ビルでの思い出

金井
当時は周辺に高い建物が少なかったので、ビルとしての知名度は高かったと思います。正式名称である「広島朝日ビル」よりも、映画館の屋号である「広島朝日会館」の方が浸透していましたね。

 

松原
タクシーの運転手に「広島朝日ビルまで」と言っても伝わらなくて…。「広島朝日会館まで」と言い換えたら、「あのビルのことね!」とよくなりましたね。広島朝日会館の知名度の高さを感じました。

当時の広島 鳥瞰写真 ①広島朝日ビル ②広島城 ③県庁
(出典:1979年発行「朝日ビルディング 50年史」)

 

坂本
夏場、屋上にはビアガーデンがありましたね!

 

三木
地下に入居されていた居酒屋さんが、屋上で料理を提供していました。周辺のサラリーマンのお客様で賑わっていて、私たちも仕事終わりによく行きましたね。

 

坂本

お店の人からこっそり割引券をもらったりしてね (笑)
いつ行っても大盛況でした。

 

当時のビアガーデンの様子
(出典:1979年発行「朝日ビルディング 50年史」)

 

広島朝日会館での思い出

館内の様子-座席-

 

館内の様子-ロビー-
(出典:1979年発行「朝日ビルディング 50年史」)

 

西部
広島朝日会館の最初の封切り映画は、モーゼを描いた「十戒」でした。広島朝日会館は、旧・新朝日ビルディング(大阪市北区中之島)のフェスティバルホールと同じ1958年に開館しました。ともに赤を基調とした会館で、大阪のフェスティバルホールは赤い絨毯を敷いて、広島朝日会館は赤いPタイルを敷いていました。私は1988年に劇場課に配属されて、1991年からは支配人を拝命しました。新卒で入社して6年後のことです。支配人としてはかなり若かったので、営業活動にはいろいろと苦労した思い出があります(笑)

 

坂本
広島朝日会館で、最高の興行収入を記録した作品は何でしたか?

 

三木
最高の興行収入となったのは、「タイタニック」でした。正月にも興行していて、「正月早々、船が沈んでしまう暗い映画か…」等の声もありましたが、結果として大ヒットしました。当時、座席の指定席がなかったこともあり、開演前には広島朝日ビルを1周するくらいの列ができてしまうこともありましたね。

 

金井
そんな時は劇場課とか関係なく、我々技術系の社員も列の整理をしました。一致団結して対応していましたね。

 

松原
タイタニックの人気?映画館としての人気?本当に人気が凄かったですね。チケット窓口にあったダンボールの中が、現金でびっしり詰まっていたのを今でも覚えています。あれは衝撃でした(笑)

 

西部
今となっては珍しいこととして、1994年までは土曜日にオールナイト興行をやっていて、当時は本当に朝までやっていましたね。その後、観客が少なくなってしまったので、今でいうレイトショーに切り替えたと記憶しています。

 

坂本
上映中、映写機のフィルムが切れることもありましたよね。

 

三木
映画が途中で止まってしまったお詫びとして、次回以降使える招待券をよくお渡ししていましたね。

映写設備
(出典:1979年発行「朝日ビルディング 50年史」)

 

広島朝日ビルの解体

(解体工事着手前 2010年頃)

 

金井
ビルの解体前に、技術から営業に異動し、テナントとの渉外も初めて経験しました。お世話になった方々に退去いただくことになるのは非常に申し訳ない気持ちでしたが、それまで技術の仕事でテナントの方々と日頃からコミュニケーションをとっていたこともあり、受け入れていただくことができました。当時の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

 

三木
日常のコミュニケーションは非常に重要ですね。
ちなみに、解体前の“広島朝日会館さよなら興行”は「タイタニック」でした。公開からかなり年数が経過していましたが、多くの方にご来場いただいたことを鮮明に覚えています。

 

当地区再開発事業への期待や思い

坂本
当再開発事業について説明させていただきましたが、広島朝日ビルに勤務経験のある皆様の新ビルへの期待や思いをお聞かせください。

 

松原
建物の外観イメージがかっこいいですね!特にホテル部分の斜めにカットされたところが非常にかっこいいと思います。どういう名称になるのか楽しみです。

 

金井
技術的な側面で見ても、メンテナンスはしやすそうですね。外観のかっこよさとメンテナンスのしやすさ、バランスがとれているので非常に良いと思います!立地もよいですし、今後カミハチキテルとの連携もあると思うので期待しています。

 

西部
広島朝日会館は年間10万人を超える方が来場され、広島市民から愛されていた施設でした。その跡地に新たなにぎわいが生まれることは非常に感慨深いです。当時を超えるにぎわいになることを期待しています。

 

三木
西部さんと同じく、新たなにぎわいが生まれることに期待しています。「広島朝日会館」のように、色々な人から「あのビルね!」といわれるようなビルになって欲しいと思います。

 

当時のことを懐かしく思い出す皆様の表情は笑顔で溢れていました。
長い時間お付き合いいただきありがとうございました!